カメとアキレスとウサギ
先日、算数の授業でウサギとカメの移動の様子を考える問題(いわゆる旅人算というもの)を扱っていたところ、生徒のひとりが「先生!なんでウサギとカメなんですか?」と質問してきた。もちろんイソップの寓話に由来しているのだろうが、その生徒はそれを知らなかったのだ。そこで私は「うむむ」と唸ってしまった。
後日、その生徒が「先生!ウサギとカメの話、読みました」と言ってきた。よしよし感心だなと思っていたら、「あれは競走中に寝てはいけないっていう話ですよね!」。「違います」と答えたところ、「えー違うんですか?じゃあカメはウサギを起こしてあげなきゃダメっていうことですか?」。私には、重ねて唸る以外の選択肢は残されていなかった。
まあしかし、子どもに何を読ませるか、あるいは子どもが何を読むかというのは親、あるいは当人の勝手であるし、読んだものからどんな教訓を得るかというのもその人次第である*1。さらに私は算数の教師であり、国語教師の領域に踏み込むのをよしとせず、「まあそういう捉え方もあるね」と言うにとどめた。
ところで、カメも大変である。足が遅いというのに、ウサギのみならず、過去にはアキレスとも競走させられているのである。アキレスとカメ、というパラドックスはほとんど誰でも知っている話だが、小学生くらいの子どもは、「アキレスが追い抜くに決まっているけど、追いつけないのも正しい」ように思ってしまう場合が多い。だからパラドックスと呼ばれるのだが。
念のため確認しておくと、このパラドックスは次のようなものである。
カメがアキレスの前方にいる。カメがいる地点をAとする。アキレスがAまで進む間にカメは少しだけ進む(その地点をBとする)。次いでアキレスがBまで進む間にカメはまた少しだけ進む(その地点をCとする)。アキレスがCまで進む間に・・・。
このように、非常に進みの遅いカメでも既にアキレスの前方にいるならば、決して追い越されることはない。
さて、数学として考えるとこれは等比級数が収束するということである(残念ながら哲学の話は私には分からないので、哲学的にどうという話はできない)が、目の前にいる小学生や中学生に高校数学を使って教えても意味がない。そこで、「加える数を毎回一定の割合で小さくしていくと、その和はある値に近づく」という雰囲気を普通の子どもにも納得してもらうために(数字に強いタイプの子どもなら何も言わなくても分かってしまう)、次のような話を考えてみた。せっかくなので三度、カメにご登場願おう。
あるところにカメがいて、このカメは今から丸いケーキを食べようとしている。このカメはケーキが大好きで、一度に全部食べてしまうのはもったいないと考えた。そこで、カメは次のルールを自らに課した。
1日目、ケーキの半分を食べる。
2日目、残っているケーキの半分を食べる。
3日目、残っているケーキの半分を食べる。
4日目、残っているケーキの半分を食べる。
…
このようにケーキを食べていけば、食べる量は常に前日の半分ということになるが、食べ切ってしまうことはない。そして何日食べようとも、食べたケーキの量の合計がもとの丸いケーキ1個より多くなることはない。数えきれないくらいの日数食べ続ければ、食べた量の合計はもとの1個に限りなく近づくだろう。
カメがケーキを食べるのかという話は問題にはならない。そんなことを言うならアキレスだってカメを追いかけたりしないのだ。
速さや割合といった、算数数学嫌いの小中学生が特に嫌う単元の印象が前面に出るアキレスの話より、多くの子どもが大好きなケーキの話で、見かけ上は数字を使わず「半分」という表現を使ったほうがイメージしやすいと思うのだが、どうだろうか。
この話を冒頭の生徒にしたらどういう反応をされるだろうか。「先生!ケーキが腐ってしまいます」というようなことを言われても私はもう驚かない。そして冷静に「キミ、冷蔵庫や冷凍庫は何のためにあるのかね」と彼に対して問うだろう*2。
暗い未来
私は塾の講師をして糊口を凌いでいる。塾の講師をやっている人の半分かそれ以上は、おそらく「人に物を教える仕事をするつもりなんてまったくなかったけど、他にやること、できそうなこともないし、勉強はできない方ではなかったし、まあやるか」という後ろ向きな理由でこの職業に就いたのではないかと思う。少なくとも私はそうだったし、周りを見てもそういう人が多い(眺める範囲が狭いので、そういう人は実は少ないのかもしれない)。
しかし、人間とは不思議なもので、そこに理念や理想というものなど何もなく始めたにもかかわらず、続けていくうちに「教育とはどうあるべきか」とか「公立学校の学級崩壊を始めとする問題は何が原因なのか」とか、いろいろ考えるようになる。そんな「いろいろ」について、少しずつ書いていきたい。
私が日々生徒と様々な話をする中で強く感じるのは、学校の先生が塾の講師と比べても生徒に尊敬されていない、ということである。学校の先生になるような人はおそらく、「こういう授業をしたい」「教育とはこうあるべきだと信じるところを実践したい」というような高い志を持っている(あるいは、持っていた)であろうにもかかわらず、である。
確かに学校の先生に関する生徒の話の中には、それはひどいな、と感じさせるようなものもある(それは、既に先生を尊敬していない子どもの話なのだが)。しかし、我々塾の講師だって相当おかしな人間が揃っている。尊敬に値しない大人ランキングというものがあれば、上位ランカー間違いなしである。
それではなぜ、このような状況になっているのだろうか。ひとつは「学歴信仰」である。
公立学校というのは、生徒をより偏差値の高い学校の入学試験に合格させることを第一の目的としていない。入試に必要な科目だけでなく、実技科目も教える。文化祭や体育祭、宿泊学習や修学旅行などの行事を行う。他にもさまざまな活動、集団生活を通して、精神力、体力、人との付き合い方などとにかく多くのことを「学ぶ」場なのである。ところが、多くの生徒(というか本当は親)にとって、そんなことは二の次であり、望む学校に入れる学力がつくのかどうか、そのための「勉強」をさせてくれるのかどうかが最も大切なのである。そして塾は入試のための勉強をする場所である。そういう意味で「塾の方が大事だ」と、親が思い、そうなれば当然子どももそう思う。
我々からすれば、それはそれでありがたいことなのだが、それでもこの状況を変えられるなら変えたいと思う。なぜなら、子どもが学校の先生を尊敬し、学校で学ぶことを大切だと感じ、学校における活動(もちろん授業も含む)に真剣に取り組む方が、結果的に学力も伸びるからである。また、塾も「勉強を教える」ということに専念でき、我々の仕事は楽になるからでもある(信じられないことに、躾を塾に期待する親は多い)。
親が、学校の先生を尊敬し、学校に期待すること。それが無理なら、せめて子どもがそう思うようにし向けること(実際に、本当に「できる子」の親というのはそういうものである)。学校の先生は尊敬に値する人物(であるはず)なのだから、それをもっと上手に親や子どもにアピールすること。難しいかもしれないが、必要なことだと思う。
我々塾の講師が学校の先生よりも尊敬されているようでは、教育と、子どもたちの未来は暗い。